村上隆の代表作の一つであり、最も賛否が分かれる作品といっても過言ではないマイロンサムカウボーイ。オタク文化を取り込んだ彼の作品について語っていく。
マイロンサムカウボーイ
「My Lonesome Cowboy」(1998年)は、村上隆が1998年に制作したオブジェ作品である。銀色の髪が逆立ったアニメのキャラクター風の男の子が自らの精器から大量に精液を噴射しており、その様はまるでカウボーイがロープを巧みに操っているようである。
村上隆といえば、オタク文化を取り入れたアニメのようなアートというイメージが強いと思われるが、まさしくその通りである。
例えば、有名なものとしてフラワーズが挙げられる。フラワーズは、村上がつくりだしたひまわりのような顔をしたアニメ風のキャラクターだ。フラワーズが登場している作品には「Flower Ball」(2002年)や「Flowers in Heaven」(2010年)などが挙げられる。フラワーズは広島・長崎への原子爆弾投下からインスピレーションを受けており、原爆投下からの「絶望の恐怖から笑顔の花に繋げる」というコンセプトだという。
そんな村上隆作品の中でも、今回は彼の作品史上最も波乱を生んだといっても過言ではない「My Lonesome Cowboy」(1998年)という作品を中心にして語っていく。
この作品について衝撃だったのは、2008年にサザビーズの開催したオークションにて当作品がなんと当時の約16億円という高値で落札されたことである。
一般人にとっては、「こんな作品になぜこんなにも価値が付くのか」「これがアートなのか」などといったような懐疑的な感想を抱くことも不思議ではないだろう。しかし、実際にこの作品にこれほどの価値があるとみなされていることには理由があるのだ。
オタク文化の躍進
マイロンサムカウボーイをはじめとする村上隆の作品に共通しているテーマは、「オタク文化」である。「オタク」という言葉は今では当然のように使用されているが、そもそも、「オタク」はいつから存在したのだろうか。
「オタク」という言葉は、1980年代頃にアニメや漫画などのサブカルチャーの熱心な愛好家たちが「お宅」や「お宅は?」といった言葉を愛用するようになったことから、彼らのことを「オタク」と呼ぶようになったことに基因する。本来、「お宅」という言葉はそこまで親しくない相手に対して少しの敬称の意をこめて使用する二人称であるはずだが、かの「オタク」たちはそれを日常的に好き好んで使っていたのである。
さらに、この「オタク」という言葉が本格的に一般化されたのは、コラムニストの中森明夫氏が 1983年に成人向け漫画雑誌『漫画ブリッコ』に連載した「『おたく』の研究」にて「オタク」を紹介したことがきっかけとされている。
このように、「オタク」という表現自体はかなり長い歴史を持つのだが、「オタク」に対する日本人の印象はこれまで決して良かったとはいえないだろう。これまでは、「オタク」はアニメやゲームばかりに熱中し、実社会から疎外されているといったような勝手なイメージを持たれてきたといえる。
しかし、ここ最近では変化が見られる。オタク文化はより身近なものになり、今や誰もがアニメやゲームに夢中にになる。オタクと聞いても否定的な印象を持つより、むしろどんなアニメやゲームが好きなのかといったように、オタクを「趣味」のように捉えるようになった。
同じように、村上隆はオタク文化を現代アートに取り入れ、彼のユニークな作品は特に海外から大きな支持を集めることになった。現に、2010年にはフランスの由緒あるヴェルサイユ宮殿にて村上隆の個展が開催された。これには現地でも賛否が分かれたそうだが、これだけでも彼が海外で名を上げているアーティストだということがわかる。
このように、オタク文化は「日本の一部の陰湿な文化」から「国内外で人気の文化」へと成長を遂げたのである。
村上隆が日本人に嫌われる理由
さて、オタク文化に対する日本人の価値観はより良い方へと変化しているものの、村上隆に対する彼らの評価はあまり高くないといえる。
もちろん、フラワーズといったような大衆ウケするようなデザインチックな作品に対しては好意的な意見も多いだろうが、やはり村上隆は日本人から「嫌われている」とみる。一体なぜなのか。そして、なぜその傾向は海外よりも日本の方が強いのか。
最も大きな理由として考えられるのは、異文化に対する「開放度」である。
例えば海外の国の多くは、特に米国などは様々な文化が入り混じった多文化国家である。人々の肌の色、信仰する宗教、食生活、服装などは実に多様であり、人々は様々な文化と触れ合いながら生活する。彼らは異文化に対して「開放的」なのである。
一方で、島国である日本で生活する人々の大半は日本人である。日本人に囲まれながら育った日本人は、日本文化を基準として自分たちだけの世界をつくり、同族に対する仲間意識を持つ。いわば、日本人は異文化に対して「閉鎖的」なのである。
この傾向は、現代アート界でも同じであると考える。
海外では、新しいアートの形を積極的に受け入れていくという姿勢が感じられる一方で、日本ではこれまでに培ってきた日本伝統の価値観を重視する。例えば、新しい形のアートに触れたときに、もしそれが美しい写実的な日本画に代表される「日本伝統の価値観」に反するものであれば、「こんなものはアートじゃない!」と一蹴する。つまり、それまで自分たちが作り上げてきた、アートとはこうあるべきであるという「アートの価値観」に反する作品に対してある種の拒否反応を示すのである。
また、日本では特に既存権益を重視する。例えば、何か革新的なことに取り組もうとした場合であってもそれが既存権益の利益にならなければ下火になってしまう。いわば、これまでの「歴史」が作り上げてきた権威を重要視するのである。そしてこのことは、長い歴史を持つ日本画をどうしても「正しい美」として捉えようとする日本人の傾向と重ね合わせないわけにはいかない。
このように考えると、村上隆の作品が日本人から嫌われていることは当然のように感じられる。何せ、彼の作風は「歴史ある優雅な日本画」の作風とは一線を画すものであるからだ。日本伝統の美学を基準に現代アートを考えると、村上隆の作品には何の価値も見い出されないだろう。
スーパーフラットは新たな二次元を切り拓く
日本のオタク文化を取り入れた村上隆は、自身の芸術理論を「スーパーフラット」と名付けている。
スーパーフラットとは、主にアニメやポップカルチャーのように遠近法が使われない平面的・二次元的なものを指し示す表現であり、村上隆はこのスーパーフラット理論に基づいて二次元的な作品を制作している。
また、スーパーフラットはアニメや漫画などの日本のオタク文化だけでなく、西洋絵画に見られるような奥行きを作り出さない日本画の理念も反映したものである。
さて、ここでスーパーフラットについて少し面白い話をしたい。スーパーフラットの絵画作品においては、簡単に言えば「二次元」で絵画が描かれるのだが、ここで比較したいのが新造形主義である。
新造形主義とは、オランダの抽象画家であるピエトモンドリアンが提唱した芸術理論で、直線と三原色・無彩色のみで絵画を描くことで抽象的に物事を捉えることを目指すというものである。この新造形主義においても、平面的に絵画が描かれるため、いわばスーパーフラットと同じように「二次元」を追求した芸術理論であるといえる。
しかし、両者の理論には大きな違いが一つある。それは、「二次元化の方法」である。
新造形主義の二次元化の方法は分解である。本来、人や物は直線だけでなく曲線でも構成されているし、三原色・無彩色に加えて無数の色で成り立っている。しかし、新造形主義ではそういった様々な人・物の構成要素を、直線・三原色・無彩色の三つに分解している。そのため、新造形主義で描かれる絵画には具象は存在せず、現実の姿とは大きくかけ離れたものになる。
一方で、絵画におけるスーパーフラットで行われる二次元化の方法は奥行きの排除である。スーパーフラットでは、人・物の構成要素を分解するわけではなく、単に奥行きを無くしているだけなのである。これは、スーパーフラットの原点となるアニメや漫画、日本画にも同じことが言える。そのため、スーパーフラットに基づく作品は現実と同じく具象で描かれており、現実の姿とは大差がない。
この点から、スーパーフラットは、日本古来の表現を「進化」させる形で生み出された今までにない革新的な芸術理論であることがわかる。
マイロンサムカウボーイを気持ち悪いと感じるのは当然?
スーパーフラットの提唱者である村上隆作品の代表作の一つである「My Lonesome Cowboy」(1998年)だが、この作品を気持ち悪いと感じる人は当然多いだろう。
これまで、村上隆の作風が日本人に嫌われている理由として「歴史」を重視することを挙げたのだが、ここでいう気持ち悪いという感情はこれとは別問題であることは確かである。
ただし、注意してほしいのは、この作品が気持ち悪いからといって現代アートとしての価値がないことにはならないことである。
日本特有の文化であったオタク文化を世界的な文化へと成長させて、現代アートの新たな境地を切り拓いた村上隆が制作したマイロンサムカウボーイ。その視覚的インパクトと革新的なアイデアには大いなる価値が見い出されるはずであろう。
日本画のような「綺麗」な絵画だけがアートとしての価値があるのではない。日本のオタク文化を現代アートに取り込むという斬新なアイデアから生まれたこの作品は、間違いなく村上隆の傑作の一つなのだ。
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