シュルレアリスムを代表する作家サルバドール・ダリの代表作である「記憶の固執」が伝えたいこととは一体何か。彼の生い立ちを振り返りながら語っていく。
サルバドール・ダリの代表作「記憶の固執」
サルバドール・ダリは、1904年にスペインのカルターニャ東北部のフィゲラスという地に生まれた。
幼いころから油絵に触れてきたダリは、1921年にスペイン・マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学するが、退学処分を食らう。
その後、パリに拠点を移すと、フロイトの精神分析学への熱中やミロやピカソといった著名な画家との出会いを経て、シュルレアリスムを代表する作家へと名を上げることになる。
そして、1931年に「記憶の固執」を制作した。これが後に彼を代表する作品となるのである。
「記憶の固執」の断片
さて、ここから「記憶の固執」の興味深い点について考察をしていく。
時計
まずは、時計である。この作品では、三つの溶けているような時計が登場する。これらは、ダリが溶けかけたカマンベールチーズからインスピレーションを受けたものであるとされている。
これらの時計は、「夢と現実」と「死と時間」について表している。
ここでは、本来固形であるはずの時計がまるでカマンベールチーズのように溶けている。これはつまり、ここで描かれている世界は「時計が固形である現実世界」ではなく「時計が溶けてしまう夢の世界」であるということになる。
また、こんな風に溶けてしまった時計の針は通常通りに進むことはないだろう。そのため、進まない時計が存在しているこの世界の時間は止まっているのである。時間が止まっているということは、すなわち「死」である。「記憶の固執」の世界は、時間が永久に進まない死の世界ということだ。
なお、ダリは自身の芸術理論として「偏執狂的批判的方法」を提唱している。そこでは、このような「妄想的なイメージ(溶けたカマンベールチーズ)を客観的に認識可能な状態(柔らかい時計)にする」方法をダブル・イメージと名付け、自身の作品で用いている。
蟻
画面左手前にはオレンジ色の時計があり、その上に無数の蟻が集まっている。
この無数の蟻は「死と腐敗」について表している。
この蟻は、ダリが幼い頃に目撃した「蟻が昆虫の死骸を食べ荒らしている光景」からインスピレーションを受けている。幼いダリ少年にとって、無数に蠢く蟻たちが昆虫の死骸を食らう姿は心底グロテスクに映ったに違いない。
ここでは、無数の蟻は昆虫の死骸の代わりにオレンジ色の時計に群がっている。これはつまり、オレンジ色の時計が、蟻が群がるような「死んだもの」であることを象徴していることになる。このことは、先ほど触れた柔らかい時計と通ずる。「永遠の死」を意味した三つの柔らかい時計と同様に、このオレンジ色の時計と蟻もまた「死」を象徴しているのである。
白いもの
さて、この作品の登場物の中で最も不気味なオーラを放っているのが、画面中央手前にある謎の白いものである。
この白いものには溶けかけた時計が乗っており、先端部分にはまつ毛のようなものが生えている。全体的になんとも形容しがたい容姿をしており、何かの生き物のようにも見えるし、はたまた餃子の皮のようにも見える。
実は、これはダリの自画像であると考えられている。ダリの代表作の一つで、「記憶の固執」(1931年)の少し前に描かれた「大自慰者」(1929年)において、この白いものと酷似する姿で描かれたダリ自身が登場している。
「大自慰者」では、ダリの性に対する恐怖について描かれている。ダリは、幼い頃に父親から梅毒の症状の資料を大量に見せられていたとされており、このことがトラウマとなり性に対しての恐怖心がダリの心に芽生えたという。
「大自慰者」が描かれた同年に、ダリはパートナーであるガラと出会っており、この作品の画面右あたりに描かれた女性がガラとされている。この作品のタイトルからも分かるように、ダリはこの作品でガラに向けた自慰行為を表現しているのだ。
記憶が固執するとき -過去・現在・未来-
この作品では、三つの溶けかけた時計が登場している。なぜ三つなのだろうか。
美術史家のドーン・エイズによると、これらの時計は時空のひずみを表しており、現在進行・過去の様々な時点の一時停止した瞬間を同時に描いているという。
こういった主張の根底には、「ダリがアインシュタインの一般相対性理論をこの作品に取り込んだ」という指摘がある。
しかし、私はこの議論をより面白くするためにまた違った解釈をしたい。私は、この三つの時計は「過去・現在・未来」の三つの時間の地点が同時に存在していることを示していると考える。
先述した通り、ダリは「蟻が昆虫の死骸を食べているところ」や「梅毒症状の写真」を見たことなど、様々なトラウマを抱えている。恐らく、こういったトラウマは過去はもちろん現在進行・未来時点においても新たに増幅し続けることだろう。すなわち、これら三つの時間の地点はそれぞれの地点(もしくは人生のあらゆる地点)におけるダリのトラウマを示しているのである。
ここで少し話を戻すが、過去・現在・未来の三つの時間の地点を示す三つの時計は溶けかけており、針が進むことはない。つまり、これら三つの時間の地点は永遠にダリの心に残り続ける、すなわち記憶が固執することを意味する。
溶けかけた三つの時計は、過去・現在・未来というダリの人生のあらゆる地点において発生するトラウマの記憶が、ダリの心の中に永遠に固執し続けることを示しているのである。
「柔」と「固」と「性」
ダリのトラウマの大きな部分を占めるのが性である。
幼いころに父親から見せられた梅毒の写真が主な原因となっているのだが、ここで注目してほしいのは「記憶の固執」で描かれている「柔」と「固」である。
この作品における「柔らかいもの」は何かと聞かれたら答えることは簡単だろう。三つの溶けかけている時計と、ダリの自画像である。
では「固いもの」とは何だろうか。一つは、溶けかけた時計とオレンジ色の時計が乗っている茶色の箱のようなものである。そしてもう一つは、背景の左奥にある長方形の板のようなものである。とりわけ、背景の板のようなものに関しては特に存在する意味が感じられないことから、まるでこの作品に「固いもの」があるということを示すためだけに描かれているとも感じられる。
この「柔らかいもの」と「固いもの」の対比から連想されるのは「性」である。
ダリは、幼いころに体験した性へのトラウマが原因でEDであったとされている。この作品で「柔らかいもの」と「固いもの」の対比が如実に描かれているのは、自身の性へのトラウマを象徴するためであったのではないだろうか。
先述した通り、トラウマの記憶がダリの心に永遠に固執することがこの作品のテーマの一つであるとすると、このように性の象徴となる対比を作品に描くことに対して何の疑念もわかないだろう。
彷彿とする死
「記憶の固執」からは、生が感じられない。なぜだろうか。
一つは、生物の存在が極端に少ないことが原因であろう。確かに、オレンジ色の時計に群がる蟻やダリの自画像は生物の類に含まれるかもしれないが、なんというか、生の躍動感が全く感じられない。また、茶色の箱から木が生えてはいるが、葉はすべて抜け落ちて明らかに枯れてしまっている。
また、この作品では時間が進んでいない。時間が進まないということはつまり「死んでいる」ということだ。見てわかる通り、この作品の中で動きは一切感じられない。背後の海も波がまったく立っておらず、風が吹いているようでもない。まさに、時間は停止している。
「記憶の固執」は、死を彷彿させる。
この作品から感じられる不気味な感覚は、ダリの作り出した空間にまとわりつく「死」の印象の産物なのだろう。
「記憶の固執」が伝えたいこと ( “死の超空間”)
「記憶の固執」からはダリの様々なトラウマや苦しみが感じられる。ダリは、この作品を通して私たちに何を伝えたいのだろうか。
性へのトラウマや、死に対する恐怖心。ダリの人生のあらゆる地点におけるトラウマが、時間という概念を超えて一つの存在しない空間に集結している。
最も怖いのは、この“超空間”では時間が進まないということである。
想像してみてほしい。あなたは今、ダリの描いた「記憶の固執」の世界に一人佇んでいる。そこでは、過去・現在・未来において体験した様々なトラウマが永遠に繰り返される。様々な時間の地点が集合したこの存在しないはずの空間では時間は進まず、あなたは永遠にこの場所から出ることはできない。果たして、この状況にどれだけ耐えることができるだろうか。
ダリは、この作品を通して鑑賞者に自身の永遠の苦悩を伝えたいのではないのだろうか。
ダリは、まさしくこの「死の超空間」に永遠に囚われているのである。
引用:アイキャッチ画像 Salvador Dalí. The Persistence of Memory. 1931 © 2024 Salvador Dalí, Gala-Salvador Dalí Foundation / Artists Rights Society (ARS), New York
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