「グランド・ジャット島の日曜日の午後」を解説。ジョルジュ・スーラの名作から読み取れる三つの考察とは何か?
ジョルジュ・スーラと新印象派
ジョルジュ・スーラは、点描画法と呼ばれる独自の絵画技法を提唱した、新印象派の創始者の一人である。
1859年にフランス・パリで生まれたスーラは、18789年にパリ国立高等美術学校に入学した。
在学中に兵役のために学校を離れることがあったものの、スーラは絵画制作や研究を順調に進めていった。
「グランド・ジャット島の日曜日の午後」は、スーラが1884年から1886年の約二年間もの長い期間をかけて完成させた、点描画法を用いた彼の代表作である。この作品は、フランスのパリ近郊に位置するセーヌ川の中州で一日を過ごす人々を描いた作品となっている。
印象派に対して否定的な意見を持っていたスーラは、以後色彩理論や科学に基づいたアプローチを行う新印象派の第一人者として評価を高めていった。
他の画家と比較するとかなり平穏な人生を送ったスーラは、1891年にその生涯に幕を閉じた。点描画法を用いた彼の作品は、現在においても高い人気を誇っている。
科学と絵画
ジョルジュ・スーラの点描画法は、絵画への科学的アプローチを目指した結果生まれた絵画技法である。
点描画法は、原色を混ぜることなく点で絵画を描いていく方法である。こうすることにより、鑑賞者が脳内でそれぞれの原色を混ぜ合わせることで色を認識するため、実際に色を混ぜることによる色の濁りを防ぎ、明るくやわらかな表現をすることができる。
スーラは、1860年代のフランスで起こった印象派が人間の「感情」に訴えかける絵画であったことに対して抵抗感を持ち、絵画により「科学」を取り入れようと考えた。
印象派は当時、筆触分割という技法を用いていた。筆触分割とは、色を混ぜずにそれぞれの色を隣り合わせて描くことで、原色の彩度を失うことなく対象を描くという方法である。彼は当時の光学理論や色彩理論の研究に基づき、この筆触分割を発展させて点描画法を発明した。
絵画に科学的アプローチを行った結果、スーラは人間の視覚を最大限まで利用することで極限まで「感情」を取り除いた絵画に辿り着いたのである。
階級社会の闇
ところで、「グランド・ジャット島の日曜日の午後」には対になっている作品がある。それが「アニエールの水浴」(1884年)だ。
「アニエールの水浴」は、「グランド・ジャット島の日曜日の午後」と同時期に描かれた作品である。画面右半分にセーヌ川の水浴場が広がっており、比較的ラフな格好をした人々がのんびりとくつろいでいる姿が確認できる。川の中に入って水遊びをしている人もいれば、川岸に座ったり寝そべったりしている人もいる。非常に居心地の良さそうな雰囲気が感じられる作品だ。
ここで、再び「グランド・ジャット島の日曜日の午後」に戻ろう。この作品では、画面左半分にセーヌ川が広がっている。そう、これら二つの作品は同一の場面をセーヌ川を隔てて描いた作品なのである。
ところで、これら二作品に登場する人々をよく観察してほしい。先述の通り、「アニエールの水浴」で描かれた人々はそれぞれが各々の形で優雅に水浴を満喫している様子が伺える。一方で、「グランド・ジャット島の日曜日の午後」で描かれた人々からは、どこか張り詰めた空気感が感じられる。彼らは特に何かを楽しんでいるわけではなく、むしろ深刻で暗い雰囲気をまとっている。
この二作品における対比は、当時のフランスの階級社会の構造を表していると考えられる。つまり、「アニエールの水浴」に登場する人々は労働者階級で、「グランド・ジャット島の日曜日の午後」に登場する人々は上流階級であるということだ。
ところで、「グランド・ジャット島の日曜日の午後」の画面右手前に並んで立っている、裕福そうな一組の男女の足元に猿が描かれているのがわかる。猿というのは、ヨーロッパでは長い間罪や悪徳、欲望の象徴とされてきた。このことから、この男女は夫婦ではなく不倫関係にあると考えられる。
不倫や売春などが横行していた上流階級の「闇」と、決して裕福ではないものの明るい日常を楽しんだ労働者階級の「光」の対比が、この二作品で表されているのだ。
白いワンピースの女の子
さて、上流階級の人々が描かれた「グランド・ジャット島の日曜日の午後」であるが、画面中央あたりに赤い服の女性と一緒に歩いている、白いワンピースの女の子がいるのがわかるだろう。
よく見ると、他のほとんどの人々は横を向いていて顔が見えないのに対して、彼女は鑑賞者である我々の方を向いているため、はっきりと顔を確認することができる。いやむしろ、彼女の方が我々を見ているようにすら感じられる。
全体的に暗い印象がある画面の中でも、女の子が身にまとうワンピースと帽子の白色が一際輝いている。一体、彼女の存在にはどのような意味が込められているのだろうか。
先述した通り、この作品で描かれている上流階級の人々の間では、不倫や売春といった悪行が横行していた。それに対して、無垢な白いワンピースの女の子はそんな世界の実情を知らずにいる。
彼女は、汚らわしい上流社会に残された唯一の希望の象徴なのではないだろうか。彼女のワンピースと帽子の白色は、未だ誰にも汚されていない潔白の証となっている。
スーラは、権力と欲望に満ち溢れた上流社会を軽蔑し、そこに明るい未来を見出さなかった。しかし、それでもまだ、彼らの世界にも彼女のような小さな「希望」が残されていると信じていたのだろう。あるいは、そうであってほしいという彼の願望の表れが彼女なのかもしれない。
時間停止と三つの考察①
点描画法が用いられたこの作品は、原色をすべて点で置いていくことで描かれている。
これにより、混色による色の濁りを防いで柔らかい表現をすることができるのであるが、点描画法にはもう一つの特性がある。それは、時間が停止する点だ。
通常、絵画作品には筆の流れや色の混ざりによって動きが生まれる。例えば、歩いている人を描いた絵画の場合、本来絵画は静止画であるはずだが、鑑賞者の脳内で自然とその人が歩いている想像が生まれる。これは、筆跡や色の混ざりによって画面に動きが生まれているからである。
しかし、点描画法を用いて描かれた絵画の場合だと鑑賞者の脳内で動きが生まれない。そのため、その人は「動く生き物」というよりはむしろ「静止物」に近い存在として認識される。それはもちろん人に限ったことではない。風は吹かず、木の葉がなびくこともなく、海面が波立つこともない。つまり、点描画で描かれた絵画には静止物しか存在しないため、まるで時間が停止しているように感じられるのである。
つまり、極端な言い方をすれば、通常の絵画は「動きのあるものを切り取った一瞬を描く」のに対して、点描画法が用いられた絵画は「そもそも動きのないものを描く」のである。
時間停止と三つの考察②
スーラの作品から、三つの考察が挙げられる。
一つは、ダミアン・ハーストの「桜」シリーズと通ずるものがあることである。ダミアン・ハーストの「桜」シリーズとは、ドット状にカラフルな絵の具を無数に置いていくことで桜の花びらを表現した作品群である。これについて、ダミアン・ハーストは「抽象と具象の行き来」を表していると述べている。すなわち、「抽象」的なドットで「具象」である桜を表現することで、この作品が抽象と具象の両方を兼ね備えた作品であるということである。
このことは、スーラにも同じことがいえる。スーラも、「抽象」である点を用いて「具象」的な風景を描いているためである。一見何の関連性も見いだせない二人の芸術家であるが、実は以外な共通点が存在していたのだ。
二つ目の解釈は、印象派との「瞬間」に対する向き合い方の違いである。印象派は、明確な表現を控えて、その場の光や空気感を強調することで日常の一瞬を捉えようとした。一方で、スーラ(新印象派)の絵画にはそもそも動きという概念が存在しない。そのため、印象派の絵画の次の「瞬間」には動きがあるのに対して、スーラの絵画の次の「瞬間」に動きが生まれることはないのである。
印象派は、過ぎ去ってしまう「瞬間」を描いたのに対し、スーラは過ぎ去ることのない永遠の「瞬間」を描いた。これが、印象派とスーラの「瞬間」に対する向き合い方の違いである。
三つ目の解釈は、メタファーとしての絵画である。点描画法を用いて描かれたスーラの絵画に登場する人や動物には動きがないため、彼らは生き物というよりも静止物として捉えられる。別の言い方をすれば、彼らは「感情を持った生き物」というよりも、「スーラが絵画を通して鑑賞者に伝えたかったメッセージを明確化するためのメタファーとしての物」に近い存在になるのだ。
そのため、鑑賞者は彼の絵画の中の人や動物を個別で観察するのではなく、画面全体を俯瞰的に観察し、彼がこの絵画を通して我々に伝えたいことは何だろうかと考えるようになる。彼の絵画に登場する人や動物は、彼の鑑賞者に対するメッセージを助長するための「駒」にすぎないのである。
参照:Wikipedia ジョルジュ・スーラ
グランド・ジャット島の日曜日の午後
アニエールの水浴
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