カテランの「バナナ」のダクトテープに隠された意味とは何か【コメディアンは誰か?】

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Maurizio Cattelan. Comedian, 2019. (C) 2024 Sotheby's

マウリツィオ・カテランが2019年に発表したアート作品である「コメディアン」。バナナがダクトテープによって壁に固定されているだけのこの作品はなぜ高額で取引されるのか。また、なぜバナナはダクトテープによって固定されなければいけなかったのか。物議をかもす現代アートに迫る。

バナナかアートか

それは、バナナかアートか。

イタリア生まれの現代アーティストであるマウリツィオ・カテランが2019年に発表した「コメディアン」という作品は、どこにであるただのバナナをダクトテープで壁に固定しただけのものであった。

2019年、アメリカ・フロリダ州のマイアミで開催される世界最大級のアートフェアである「アート・バーゼル・マイアミ・ビーチ」にて、「コメディアン」というタイトルが付けられたカテランの三作品が出品された。

一見ふざけたような作品であるが、最終的に出品された全三作品のうち二つはコレクターによってそれぞれ12万ドルで買い取られ、残る一つは美術館によって15万ドルで買い取られた。

しかし、注目するべきはここからである。2024年、落札された三作品のうちの一つが、アメリカの大手オークション会社であるサザビーズが開催したオークションに出品されたのである。そしてこのオークションで、カテランの「コメディアン」はなんと約9億6,000万円もの高額で落札された。

オークションに出品された当初、「コメディアン」の落札価格は100万~150万ドルほどになると予想されていたことから、結果的にこれだけの高額落札となったことは衝撃的だったのだ。

デュシャンのレディメイド

マルセル・デュシャン「泉」(1917年)

カテランの「コメディアン」について考えるときに、カテランをある有名な現代アーティストと重ねずにはいられない。男性用小便器を「」(1917年)と名付けてそのままアート作品として発表し、世界中に波乱を生んだマルセル・デュシャンである。

既製品をそのままアート作品として使用するという彼の手法は、レディメイドとして知られてる。既製品をあえてそのままの状態でアートに取り入れることによって、「アートとはアーティストによって作られるもの」という固定概念を打ち壊し、デュシャンは新たなアートの形を提唱することになった。

既製品を手つかずの状態のままアート作品とする点において、カテランとデュシャンは共通している。カテランも、バナナというすでに完成した物をダクトテープで固定しただけで、カテラン自身は自分の手で何も「作っていない」からである。

アートに対する固定概念に縛られていた当時のアート社会に対してある種の「皮肉」を込めたデュシャンだが、カテランも社会に対する風刺的な作品で知られているため、カテランがデュシャンをある程度踏襲していたことは確かだろう。

投資としてのアート

Visitors discover Art Basel’s 2019 Miami Beach edition, walking by a large Yayoi Kusama sculpture on view at Victoria Miro (H7) © by MCH Swiss Exhibition (Basel) Ltd

さて、カテランの「コメディアン」は一度はアートフェアで売却されたものの、その後再び市場に出され、前回の売却額のおよそ数十倍もの価格で落札された。

これを踏まえると、かつては純粋な嗜好品としての価値を持っていたアート作品であるが、現代ではむしろその商業的な価値の方が目立つようになっている。つまり、アート作品が投資対象として利用される傾向が強まっているということである。

このことに関しては様々な意見がある。当のアーティストからすれば、自分の作品の商業的側面ばかりが強調されることに対して嫌悪感を抱くこともあるだろうし、反対にバイヤー側としては、アート作品を所有することで経済的利益を得ることに満足していることだろう。

アート業界がお金と切っても切れない関係を結んでしまったことの是非について明言はできないが、少なくとも、今回の「コメディアン」をめぐる一連の流れは、アートがますます投資商品としての側面を強めている現代の傾向を象徴する出来事となった。

ダクトテープに隠された意味

バナナはなぜダクトテープで固定されなければならなかったのか。

これについて考察するためには、まずバナナとダクトテープの性質の違いについて考える必要がある。

バナナは、自然の産物である。一方で、ダクトテープは人の手によって生産された大量生産品である。「コメディアン」では、自然の産物であるバナナが大量生産品であるダクトテープによって固定されている。このことに、何か意味を感じることは出来ないだろうか。

このバナナとダクトテープの関係は、現代の自然と工業化の関係と似ている。近年、社会の工業化が進んだことによって大量生産が可能となり、より多くの人々に労働の機会が与えられるようになった。その一方で、工業化に伴う大気汚染や水質汚染、地球温暖化などの自然破壊が問題視されている。

工業化社会が私たちの生活をより豊かなものに向上させた反面、その副作用として本来私たちが守るべきである豊かな自然の健康的な成長を阻んでしまっている。「コメディアン」は、そうした工業化社会に対して問題提起を起こす意味を持っていると捉えることができる。

人類の長きにわたる発展の成果である工業化社会。しかしながら、ダクトテープがバナナを壁に抑えつけるように、工業化社会が自然を抑えつける足かせとなってしまっていることは紛れもない事実なのである。

なぜ「コメディアン」なのか

最後に、カテランはなぜこの作品を「コメディアン」と名付けたのだろうか。この理由として、二つの可能性が考えられる。

一つ目は、私たち「鑑賞者」に対する揶揄である。すなわち、私たち鑑賞者が、アート作品の本質的な意味を捉えるのではなく、他者の評価に応じてアート作品を評価しているということに対する揶揄である。もし「コメディアン」がアート作品として世間的に評価されていなければ、私たちがダクトテープで固定されたただのバナナにカメラを向け、SNSで拡散することはなかっただろう。

私たち鑑賞者は、「コメディアン」に込められたアート作品としてのメッセージを受け取ろうとせずに、それがアート作品であるということだけで話題にしている。カテランは、こうした“本質的にはアートに無知な鑑賞者の「コメディアン」を中心とした一連の動きそのものがコメディである”という意味を込めて、この作品を「コメディアン」と名付けたのではないだろうか。

The cover of the New York Post, 6 December 2019 (C) 2024 Sotheby’s

二つ目の可能性は、アートの投資商品化に対する嘲笑である。先述の通り、近年アート作品の売買には金銭的な利益が付きまとうようになっている。そしてもちろん、今回の「コメディアン」の二度の売却もその例外ではない。カテランは、自身の作品を「コメディアン」と名付けることによって、このようなアート売買の潮流がコメディであるという嘲笑を示したかった可能性がある。

なぜこの作品が「コメディアン」と名付けられたのか。真相は定かではないが、いずれの可能性にしても、カテランのこの作品が社会に対する皮肉的なコメディを人々に提供する“名コメディアン”であることに間違いはない。

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