形而上絵画とシュルレアリスムの違いとは何か?鍵となるのは人間に対する評価の違いなのか?一見大きな違いを見出せない両者の芸術運動に見られる決定的な違いについて語っていく。
デ・キリコと形而上絵画
形而上絵画とは、20世紀初頭にギリシャ人画家のジョルジョ・デ・キリコが、イタリア人画家のカルロ・カッラとともに提唱した芸術運動である。
形而上とは、「存在しないもの」「認識できないもの」という意味を持つ。すなわち、形而上絵画とは一般的な感覚や経験では捉えることのできないものを描いた絵画ということである。
これだけでは一体何を言っているのか理解できないかもしれないが、デ・キリコの作品を見れば、それが何を意味するのかが分かるだろう。彼の作品には人間の代わりに無機質なマネキンが登場する。また、一見何の関係性も見いだせない物がランダムに置かれていたり、奇妙に伸びた影が不気味な雰囲気を醸し出していたりと、彼の描く世界はとても現実とは思えない。
彼は、このような超自然的あるいは理念的に描かれた絵画を形而上絵画と名付け、以後世界的に高い評価を得ることになるのである。
ちなみに、デ・キリコは散々形而上絵画を描いたのちに、伝統的な絵画技法を用いた古典的な画風へと移っていくことになるのだが、彼のそうした作品の評価は低く、結局は形而上絵画を再び描くことになった。
ブルトンとシュルレアリスム
シュルレアリスムは、1924年にアンドレ・ブルトンによって「シュルレアリスム宣言」が発表されたことをきっかけに正式に開始した芸術運動である。
第一次世界大戦中、規制の秩序や常識を破壊することを目指したダダイズムという芸術運動が力を持っており、ブルトンもこの運動の中心的存在であった。しかし、ブルトンはこれと決別し独自でシュルレアリスムという理論を打ち立てた。
シュルレアリスムは、日本語で「超現実主義」と訳される。だが、決して現実を超えた「非現実的な世界」を描くという意味ではない。
一見、形而上絵画と同様にある意味で現実を超えた世界観を描くシュルレアリスムであるが、この芸術運動の目的は「人間の無意識を具現化すること」である。
例えば、有名なシュルレアリストのサルバドール・ダリの代表作である「記憶の固執」(1931年)において、ダリはカマンベールが溶けたような時計を描いている。これは、溶けたカマンベールという「無意識的なイメージ」を、柔らかい時計という「現実で認識可能な状態」にすることを目指したものである。
なお、ブルトンはシュルレアリスムを提唱する上で、人間の「無意識」についての理論を完成させた、オーストリアの心理学者であるジークムント・フロイトの精神分析学に大きな影響を受けたとされている。
このように、シュルレアリスムは人間が内に秘めた無意識的なイメージを、客観的に認識できるような形に表現することを目指した芸術運動なのだ。
空間に対する意識の違い
形而上絵画とシュルレアリスムは、一見してどちらも現実的ではないという点において似ている。多くの鑑賞者が、どちらがどちらの絵画なのかを判別できないのではないだろうか。
しかし、両者の間には確かに決定的な違いがあるのだ。その一つ目が、空間に対する意識の違いである。
まずは、デ・キリコの《預言者》(1914-1915年)を見てほしい(アイキャッチ画像参照)。マネキンやイーゼルが置かれた地面が画面の奥の建物に向かって延びているのがわかるが、何か違和感を感じるだろう。そう、この作品では遠近法が全く使われていないのである。通常であれば、地面に入った縦線は奥の一点に向かって収束していくはずだが、この作品では縦線が奥に向かって平行に延びている。
デ・キリコは、このように近代絵画の鉄則とされてきた遠近法をあえて歪ませることによって、作品内の空間的秩序を意図的に破壊しようとしたのだ。
それでは次に、サルバドール・ダリの《ナルシスの変貌》(1934年)を見てみよう。一見すると、デ・キリコの作品よりも情報量が多く支離滅裂な作品に見えるかもしれない。しかし、この作品では遠近法のルールは破られていない。そのため、作品内の空間自体は壊されていないことで、デ・キリコの《預言者》に見られるような空間自体の違和感は感じられない。
デ・キリコは、あえて空間自体を破壊しているのに対して、ダリはルールに基づいた空間の中に超現実的なものを描く。これが、形而上絵画とシュルレアリスムの一つ目の違いである。
人の”意識”に対する意識の違い
二つ目の違いは、人の意識に対する意識の違いである。
デ・キリコは、人が認識できないような超自然的・理念的なものを描こうとした。それはなぜか。デ・キリコが形而上絵画を提唱した当時のイタリアは第一次世界大戦の真っただ中であった。彼は戦争を通して、人間の内に秘めた醜さや残酷さを痛感したことだろう。それと同時に、彼は生の人間についての絵画を描くことに対して批判的になった。あるいは、無慈悲に同胞を殺しあう哀れな人間が生きる世界から現実逃避をしたかったのではないだろうか。
また、そんな低俗な人間が認識できる事象をすら絵画作品として描くことを拒絶したのかもしれない。そのため彼は、出来る限り人の意識から距離を置くことを目的とし、人の意識で認識できないようなものを描くことを目指した末に自らの絵画を形而上絵画と名付けた。
一方で、ダリをはじめとしたシュルレアリストたちはむしろその真逆である。これまでの絵画では、人間が表面的かつ意識的に判別していた事象をリアリズム的に描いてきた。しかしシュルレアリストたちは、絵画がそれ以上に人間の目で見えない”深層部分”を表現することで、絵画の未知なる可能性を切り拓くことができると考えた。彼らは、人間が持つ無意識に対してかつてない”希望”を抱いてたのだ。
デ・キリコは人間の意識に「絶望」を見出し、可能な限り人間の意識から離れた絵画を目指したのに対して、シュルレアリストたちは人間の意識に「希望」を見出し、可能な限り人間の意識を追求した絵画を目指したのである。
人間を境界とする二つの芸術運動
以上が、形而上絵画とシュルレアリスムを明確に分ける二つの違いであった。一見、どちらも非現実的なものを描いているため両者の間に大きな違いが見いだせないかもしれないが、二つの芸術運動は目的の時点において大きく異なるのである。
これら二つの違いからいえることは、刑而上絵画は人間に対して「敵対的」であるのに対して、シュルレアリスムは人間に対して「友好的」であるということである。
話を戻すが、遠近法とは平面に遠近感を出すために人間が科学的に体系化した表現方法である。つまり、遠近法とはデ・キリコが逃避したかった人間の産物に他ならないのだ。遠近法を正しく絵画に用いることは、すなわち毛嫌いする人間に迎合することを意味する。可能な限り人間の「外側」を映す絵画を目指したデ・キリコは、意図的に歪んだ遠近法を用いたのである。
対して、シュルレアリストたちは遠近法の原理から外れることはしなかった。彼らは、人間の「内側」を映す絵画を目指しており、人間の産物である遠近法を歪めることはそれに反するからである。そのため、彼らは遠近法によって統制が取られた空間の中で、人間が内に秘めた無意識の具現化に挑戦していた。
形而上絵画とシュルレアリスムは、人間という境界線を隔てて正反対の位置にある。すなわち、人間の「外側」にあるのが形而上絵画で、人間の「内側」にあるのがシュルレアリスムである。これら二つの芸術運動はほとんど同じ時期に提唱され、しばしば両者の関係性について語られることがあるが、決して相交えることはないのである。
引用: アイキャッチ画像 ジョルジョ・デ・キリコ「予言者」(1914-1915年) ニューヨーク近代美術館蔵 © Digital image, The Museum of Modern Art, New York / Scala, Firenze © Giorgio de Chirico, by SIAE 2024
挿入画像 サルバドール・ダリ「ナルシスの変貌」(1937年) Tate © 2024 Tate Images © Salvador Dali, Gala-Salvador Dali Foundation/DACS, London 2024
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