ゴッホの耳切り事件と悲しい生涯【悲劇の画家はどのようにして生まれたのか】

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Vincent van Gogh. Sunflowers, 1888. Copyright © 2016–2024 The National Gallery

ゴッホの耳切り事件では何があったのか?ポスト印象派を代表する画家フィンセント・ファン・ゴッホの悲しい生涯に迫る。

フィンセント・ファン・ゴッホ

渦が巻くような独特のタッチで世界中で高い人気を誇る、ポスト印象派を代表する画家フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年にオランダ南部に位置するフロート・ズンデルトの牧師の家庭に生まれた。

実は、ゴッホが生まれる一年ほど前に同じ名前のフィンセントという子供が生まれるはずだったのだが、その子は死産となってしまった。フィンセントという名前は、この死産の子から取られた名前であるとされている。

多くの兄弟がいた中で、ゴッホは幼いころから変わった子と考えられていたが、絵の才能の片鱗はその頃から見せていた。ゴッホは1866年に国立高等学校に進学するものの、一年を残して退学してしまった。

1869年に、ゴッホは美術商の会社であるグーピル商会のバーグ支店に店員として就職する。その後、ロンドン支店とパリ支店を渡り歩いたのちに1876年に解雇となってしまったゴッホは、聖職者を志して1878年にベルギー・ブリュッセルの伝道師養成学校に入学するが断念し、最終的に画家になることを決意した。

彼について最初に頭に浮かぶものとしては、鮮やかなひまわりの絵や自画像などがあるだろう。そんな彼の最も印象的なエピソードの一つに「耳切り事件」がある。耳切り事件とは、ゴッホが自身で左耳下部を切断し、その一部を知り合いの娼婦に送り付けたという出来事を指すものである。

一体なぜ、ゴッホはこのような奇行に及んだのだろうか。ゴッホの画家としての人生と内面について迫りながら考察していく。

黄色い家とゴーギャン

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Vincent van Gogh. The Yellow House,1888. Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

伝道師としての道を諦めて画家になることを決意したゴッホは、ベルギーで絵の腕を磨こうとしたのちにブリュッセルに出ていくことになるのだが、経済的な理由から出生国であるオランダに移り住んだ。

その後、弟テオの資金援助を受けながらエッテンやハーグ、ニューネン、アントウェルペンなどオランダ国内を渡り歩いたゴッホは、1886年についにパリへと移住することになる。

ゴッホが移り住んだ1886年当時のパリでは、マネやモネなどに代表される印象派の影は薄れ、ポール・ゴーギャンやジョルジュ・スーラなどのポスト印象派と呼ばれる画家たちが台頭していた。

ポスト印象派の表現に影響を受けながら、ゴッホはパリの風景を描いた作品を数多く残している。また、この頃のゴッホは日本の浮世絵にも影響を受けており、日本画を買い集めたり日本画を模写した油絵も残している。このことは、彼の作品である「タンギー爺さん」(1887年)の背景の壁に浮世絵が描かれていることからもわかる。

そうした中で、パリの喧騒に嫌気が差したゴッホは南フランスのアルルに移住することを決める。さらに、彼はそこで画家の共同組合をつくることを目指し、彼の作品の題材にもなった「黄色い家」で画家たちとの共同生活を計画したものの、最終的にアルルに来たのは友人のポール・ゴーギャンのみであった。

ただ、ゴッホとゴーギャンの共同生活はうまくいかなかった。その理由の一つとしては、ゴッホが写実主義的に作品を制作していたのに対して、ゴーギャンは対象の内面を描くことに注力していたことが挙げられる。この二人の不協和音も、当時のゴッホの精神状態に悪影響を及ぼしていたことだろう。

うねり・現実と夢

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Vincent van Gogh. The Starry Night, 1889. Acquired through the Lillie P. Bliss Bequest (by exchange). © 2024 The Museum of Modern Art.

彼の作品の一番の特徴といえば「うねり」であろう。「星月夜」(1888年)を見てわかる通り、星空や雲、山や立ち並ぶ木々が渦を巻くように描かれている。

この彼の描く「うねり」は、彼の内面を映していると考えることができる。先述した通り、ゴッホの夢にまで見ていたゴーギャンとの共同生活は結局失敗に終わってしまった。また彼の作品は生前一枚しか売れず、画家として生計を立てることが出来ずに絶えず弟テオからの資金援助に頼るしかなかった。

いい大人にもなって弟の手を借りなければ生活ができなかったことはゴッホにとって屈辱的であっただろう。本業の画家としては誰からも評価されなかったゴッホは、常に孤独や不安と戦っていたのである。

彼の生み出す「うねり」は、そんな耐え難い現実世界から逃れたいという思いから、無意識的に自分の理想である世界、夢の世界を描いた結果だったのではないだろうか。「星月夜」を見てわかる通り、独特の「うねり」が用いられていることによって、本来なら見慣れているはずの風景がまるで夢の世界のもののように感じられる。

精神を病んでしまうほどに報われない現実世界からゴッホが逃れられた唯一の方法は、キャンバスに自身の理想郷を描くことだったのではないだろうか。現実世界とキャンバスに描かれた夢の世界を明確に隔てる存在こそ、彼の代名詞ともいえる「うねり」だったのである。

耳切り事件

耳切り事件は、ゴーギャンとのアルルの黄色い家での共同生活のさなかに起こった。冒頭でも述べた通り、ゴッホが自身の左耳下部を切り落とし、その一部を知り合いの娼婦に送り付けたというものである。

この耳切り事件については様々な憶測が立っている。例えば、ゴッホが左耳を切り落とした際にゴッホとゴーギャンは激しい口論を交わしており、怒りを抑えられなかったゴッホが衝動的に左耳を切り落としたというものである。

また別の憶測には、二人が口論になった際にゴーギャンがゴッホの左耳を切り落とし、警察にそれを隠蔽したというものがある。

一体なぜゴッホは耳を切り落としたのか。これについての真相は永遠に闇の中である。しかしながら、その後ゴッホが切り落とした左耳の一部を娼婦に送り付けていたことを考慮すると、いずれにせよ当時のゴッホが自身の精神状態に何らかの異常をきたしていたことだけは事実であろう。

耳切り事件の後、ゴッホはアルル私立病院に入院させられた。またアルル市立病院を退院した後も、ゴッホはアルルから離れたサン=レミの療養所に入所することになる。耳切り事件は、彼の崩壊寸前だった内面を象徴する出来事の一つであるといえる。

自画像の奥の孤独

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Vincent Van Gogh. Prtrait de l’artiste, 1889. © Musée d’Orsay, Dist. RMN-Grand Palais / Patrice Schmidt

ゴッホの作品で最も有名なものの一つに「自画像」がある。しかも、彼は生涯で約40点もの自画像を制作しており、このテーマによほど”こだわり”を持っていたことがわかる。

そんな自画像だが、ほとんどすべての作品に共通していることがある。それは、すべての自画像でゴッホが「笑っていない」という点である。

例として、1889年に制作されたゴッホの自画像を見てほしい。体を斜めに向けてこちらを見ているゴッホの表情からは喜びのような感情は一切感じられず、絶望感のみがひしひしと伝わってくる。彼の描く自画像は例外なくこのような表情をしている。

また、ゴッホの背景に見える特有の「うねり」によって、彼の内面に渦巻く孤独や不安、恐怖、葛藤などがまるでこちらにまで伝染してくるようである。

この自画像に描かれた「うねり」は、先述した「星月夜」に描かれているような「うねり」とは異なった印象を覚える。果たしてこのうねりは単なる壁の模様なのか、それともゴッホから溢れ出る負のオーラが具現化したものなのか。いずれにせよ、彼の自画像からは、彼が内に秘めていた孤独や不安といった感情を読み取ることができるだろう。

悲劇的な最期

友人との決裂や耳切り事件、そして度重なる病院への入院。しかし、彼の最期はさらに悲しいものである。

ゴッホがその生涯に幕を閉じたのは1889年。その年、ゴッホは拳銃で自分の胸部を撃ったとされている。しかし、直接的な死因は拳銃自殺ではない。ゴッホの胸部に撃たれた銃弾は貫通することなく、彼の体内に残ってしまった。駆けつけた医者は彼の体内に残った銃弾を取り除くことができずに、最終的にゴッホは傷口から発生した感染症により亡くなったのである。

しかし、これには諸説がある。実はゴッホの胸部を拳銃で撃ったのはゴッホ自身ではなく、ゴッホに対して反感を持っていた地元の若者であるというものである。

ゴッホは自殺をしようとしたのか、それとも誰かがゴッホを殺そうとしたのか。確かなことはわからないが、どちらにしろ彼の最期は悲劇的なものであったことに変わりはない。

ゴッホの絵は生前一枚しか売れなかった。当時の人々は彼を変人扱いし、彼の作品を正面から受け止めることはなかった。

ゴッホが名声を得たのは彼が生涯を終えてからである。今では彼の作品は多くの人々に愛され、世界中で高い人気を誇っているが、彼自身がそれを知ることは永遠にないのである。

『悲劇の画家』。フィンセント・ファン・ゴッホという画家を一言で形容するならばこの五文字になる。

引用:Wikipedia フィンセント・ファン・ゴッホ

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